平常時と非常時、どちらに強い?
私は小さい頃から心が動きやすく心配性だったため「そんな自分やばくないか?」ということで、非常時=有事にいかに冷静でいられるか、ということを追求してきたように思う。
平常時、私はわりとへっぽこである。
気圧で月のほとんど頭痛で体調はいまいちだし、モノや服を積み上げて行くタイプだし(どこに何があるかはわかる)、息をすることや声を発することさえ最小限にしてしまいがちだ。生命力の薄いタイプのような気がしている。
目標や目的を持つことを重要視していないし、欲もあまりないため、自分にあえて何かを課すことで周りとの調和を保ってきた。(欲がないといってる奴ほど欲深かったりするね)
普段はへらヘらと締りのない顔をしているので、友人が私のヨガのクラスに参加したりすると「思ったより数倍ちゃんとやってる」と驚かれたりする。
人には平常時に力を発揮するタイプと、非常時に力を発揮するタイプがいると思う。
自分はどちらかというと、非常時に動けるやつ、になりたいし、冷静だ、きっとそうだろうと信じてきた。
そんなわたしが。今の自分は本当に非常時に冷静か?を考えた出来事について書こうと思う。
2020年某日。
年始に実家に帰ったときのことである。
友人と待ち合わせをしていたので母の自転車を飛ばして大きな通りの一本裏側の道を爆走していた。
人通りもなく、軽快に自転車漕ぐ私の横に違和感を感じて目をやると、なんと道端に口が血まみれのおばあちゃんが倒れていた。
「おばあちゃん!大丈夫かえ!」
自転車を飛びおりて駆け寄る。
おばあちゃんは横たわっていたが、意識はあった。
「家は近くだ」
そういうけど、立ち上がろうにも立ち上げれないと言うし、欠けた入れ歯と金具が散らばっていたので
口の中で刺さっていたとして刺さりどころがわるかったらやばいな、とか、人通りはないし、病院は目と鼻の先だが、通りには誰もおらず、おばあちゃんを一人残すことはできないな、とか、意識あるけど起き上がれないということは何かあるのかも、、と思い、とりあえず身体に触れずに救急車を呼ぶことにした。
おばあちゃんも「呼んでくれ」と言っている。
救急車の番号を思い出そうとすると、テレビでよくやっていた海外のドキュメンタリー的なものが頭をよぎり(そういう系の番組がすきだった)日本の番号が脳内で呼び出されない事態に。
おさらい↓
海外では 911
日本では119
iPhoneには緊急電話の機能がある。すばやく電話がかけられるというが、実際には使ったこともないし、それを解き明かす時間が無駄だと判断して、普通の電話アプリでかけることに。
119番の正しいかけ方
(出典:総務省消防庁HP)
かけ方にもあるが、住所を聞かれる。私は普段東京にいるので、地元の情報が日々薄れていたため、恥ずかしながら住所の読み方を間違えていた。(なんてこった)
私は普段淡々としているし、体調が悪くても耐性が強く、全然顔にでない。あまり感情が伝わらないタイプなので、ちょっと焦った感じで伝えようと試みた。
電話口の相手は、当たり前だけど超冷静で、焦ってみてる自分がアホみたいだ、と思った。
超、塩対応。
早く来てほしいな、と思っていても「本当に救急車出したほうがいいか」とか聞いてくる。
誰もいないし、運べないし、素人判断は怖いし、来て欲しいと伝えた。
救急車の手配をしているうちに、おばあちゃんの家族が「見当たらないから」と心配し外を探しに出たところ
私とおばあちゃんを発見。おばあちゃんは、認知症らしかった。
途中から通りがかりの人々もなんだなんだと集まってきた。
そうこうしているうちにおばあちゃんは救急車に運ばれて、無事病院へ向った。
今考えれば、目の前の家のインターホンを押して誰かに助けを求めればよかった、と思うのだが、私達がドラマティックにやりとりしている中で家からは誰も出てこなかったので、留守なのかもしれない、、と勝手な判断をしてしまっていた。
私の日常には、ドラマティックな変化はほぼない。
外科のお医者さんや看護師さんなど医療に従事されている方に比べたら、そりゃもう、のほほんとした暮らしであろう。
万が一のために、上級救命講習というものを受けて認定証を持っている私だが、やはり日頃からぬるま湯に浸かっているせいか思っていたほどの冷静さではなかったように思うのである。
ヨガや瞑想を続けていると、客観的に物事を見られるようになったり、瞬時に様々な判断ができるように意識をコントロールできるようになるとはいえ、まだまだ自分は修行中ですね、と思った出来事でした。
日々、精進ですな。
ほいたら、またね。
Hari Om Om Tat Sat
Rie
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