悟った人もただの人
この文章は、ある視点から書いたものであって絶対的なものではありません。
どうぞ鵜呑みにせずご自身で調べ考えて、取捨選択してください。
ダライ・ラマも、民衆とともに生きると決めた。
浄土宗の法然上人も山を降りて、民衆と共に生きました。
ブッダが悟りを開いた際(土佐弁バージョン・おおざっぱ意訳)
というかんじで、しぶしぶ?民衆に仏教をといてまわるんですね。
と悟りを開いたブッダは思ったわけです。
めっちゃ上から目線やん。
どんだけ、ブッダ。と思いました笑
そこでダークフォースが芽生えたら、それを利用して民衆を扇動!とかになるんでしょうけど。
ブッダはいい人だったっぽいですね。(そこかよ)
それはさておき、何が言いたいかというと
『悟り』というやつがブッダにさらなる悩みを生じさせたように
『悟る』という状態は、決して超人の神業ではないのです。
『悟った』からといっていきなり仏の微笑み&感情が無になる訳でもありません。
カルマから解放された自由な ”ある段階” に達したわけでもない。
ピラミッドの頂点にのぼり詰めるようなイメージでもありません。
ヨガも同様に、上、頂点を目指すものではありません。
手からビームでません。
悟ったブッダだって人間でした。
「無理っぽいわ。」と思いながら、いろんな形で教えを広めていきます。
世俗から離れた生活を終え、たくさんの人と関わりあいながら生きていきました。
悟りは特別な人のための特別なものではありません。
子供でも感じることができるこの世界のこと、自分ってなんだろうという
問いに対する一つの答え、、のようなもの。わたしはそれをできるだけ普通目線で、簡単に伝えるようにしています。
(もともと小難しいことが好きな性分なので、時々炸裂しているかもしれません、、ごめんなさい)
言葉というものはとても扱いが難しいもので、できるだけ言葉を選ぶようにしていますが、全てを表現することは不可能なので
なんかここ引っかかるわ、と思うことはあるかもしれません。
それはそれで言葉の面白さというか、、。
お手柔らかにお願いしますね笑
ブッダがなんで「いや〜無理っぽいわ。」と思ったかについてさらに踏み込んだ話はまたクラスでぽろっと話したりすると思う。
お読みくださりありがとうございました◯
ほいたらね。
Hari Om Om Tat Sat
Rie
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